印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |



updated 2014-06-30

 いま、『映画史特別編 選ばれた瞬間』を見て、というか爆音の凄まじさに心身とも撃たれて帰宅したところだ。もちろん映画史は戦争の記憶と切り離せないわけだから、この音響効果は正当なものである。少なくとも、この「映画史」濃縮版は、ゴダールの映像と音響が瞼を閉じようが、耳を塞ごうが、身体に直撃し、全身を内部まで震わすものとして有る。戦場と同じように。

 それにしても、自作『孤独な惑星』の爆音調整に立ち会って、終電のなくなった時間帯に、一巻ずつ、上映しながら音が変貌していく様を耳にしたときの驚きをどう記せばいいのだろう。右スピーカーからのフィルム・ノイズを消し、音量、音質、音圧のそれぞれを繊細にバランスを取っていく。もともと映画の音は、完成前に録音スタジオでのファイナル・ダビング終了時の試写が最高で、残念ながら完成プリントでは、微妙な隠し味の音は聴こえないと諦めていたものである。

 『孤独な惑星』で、サウンド・デザインの森永泰弘が仕掛け、整音の黄永昌が全体の見通しを図った音響が、現代のドン・キホーテ樋口泰人と映写技師の絶妙なコラボレーションにより、遠近感と立体感が増し、大きくなりはしないかと心配していた台詞も、ささやき声も含めて納得できる音量に収まった。驚嘆したのは、ノイズすれすれの音楽と効果の境目に隠れていた音が聴こえたこと! 

 『孤独な惑星』の物語に関係するとも、しないとも言い難い、もうひとつの物語が浮上してきたのである。爆音調整とは、耳がいいことは必須の条件だが、映画に対する共感と理解が欠かせない。樋口泰人は社長や評論家にしておくのはもったいない人物なのである。実際、爆音調整のスタッフは、映画に(映画館に)クレジットされるべきである。そして、爆音の効用は映像の見え方まで変えてしまう。空間がこれほど立体的に立ち上がり、背景やフレーム外が世界の息遣いとして迫ってきたのは、爆音で体験した一回限りである。爆音上映とは、映画の潜在的な可能性を極限まで引きだそうとする精神の在り様を言う。あの徹夜での爆音調整が、たった一回の上映のためなんて、なんと贅沢な試みであることか。

 それも、バウスシアターの音響あってのことである。吉祥寺駅からの距離も絶妙だ。あのアーケードを行く間に高まってくる期待感、帰りにつくときの高揚感を鎮める距離。

 最後に個人的な思い出を。86年あたりの冬だったと思う。遊◉機械/全自動シアターの公演がバウスシアターで行われたことがある。映画館で公演するからという理由だったと記憶するが、テーマが映画だった。映画が編集でできることを、どう生身の肉体で迫れるかのチャレンジでもあった。公演の最後で、高泉淳子が観客席に向かって座り、暗転する。すると、彼女の背後から一条の光が観客側に放たれる。そのフィルム編集と映写を頼まれたのである。終演15分前から楽屋裏で待機し、舞台にスモークが立ち込めた頃合いに、16ミリ映写機を抱えて、暗幕の後ろに移動した。そのフィルムはNGやカット・ポジを集め、長短のリズムで編集し、さらに色マジックでワイプのように連続性を持たせて塗ったり、一コマ置きに塗りつぶし断続的に明転させたりした。映画の編集は数えきれないほどやったが、イメージを見せない編集は、これ一度きりである。残念ながら、観客席から光の帯を見ることはできなかったが。これも映画館体験ではある。

筒井武文